「D&Iを考える」第4話 社会構造の偏りと向き合いながら、未来の働き方を創る

近年、耳にする機会が増えた「ダイバーシティ&インクルージョン(以下、D&I)」とは、異なる背景や価値観を持つ人材が互いを尊重し、それぞれの能力を最大限に発揮できる環境を整えることを指します。今やD&Iは、企業の競争力を高めるうえで欠かせない経営戦略として、多くの企業が掲げるテーマとなっています。
しかし現場では、「何から始めればよいのかわからない」「成果が測りにくい」「最終的なゴールが描けない」といった戸惑いの声も少なくありません。
本連載「D&Iを考える」第4回では、株式会社Cradleを創業し代表を務めると同時に、アーティストとしても国際的に活躍されているスプツニ子!さんにお話を伺いました。Cradleは「誰もが輝く、未来を育む。」をビジョンに掲げ、従業員のウェルビーイング向上や、組織のダイバーシティ推進を支援するサービスを提供しています。今回は、その具体的な取り組みや、D&Iへの想いについて深くお聞きします。

スプツニ子!
アーティスト、起業家など多彩な肩書き・領域で活動しながら、MITメディアラボ助教、東京大学大学院特任准教授、東京藝術大学芸術学部デザイン学科准教授などを歴任。2017年より活動拠点を日本に移す。2019年に株式会社Cradleを設立し、代表取締役社長に就任。
多様な文化に触れる中で、社会構造の偏りに気づくきっかけがあった。

「Menstruation Machine - Takashi’s Take」
子どもの頃から海外で暮らし、さまざまな暮らしや文化に触れてきたスプツニ子!さんは自然とジェンダーやセクシャリティ、人種など、社会的属性や構造の問題に関心を持ち始めたと言います。
「日本では、学校で「ガイジン!」といじめられたり、ジェンダーギャップの大きさに驚き、イギリスやアメリカでは格差社会やアジア人差別に触れ、『世界には、いろいろな偏りや理不尽なことがあるんだな』と子どもながらに感じていました。幼少期に日本やイギリスで、属性ゆえに排除されたり誤解を受けたりする経験を重ねたことから、歴史の授業においても、女性参政権運動、アメリカの公民権運動、アパルトヘイトなど、社会的マイノリティの権利獲得に関わる事象に強い関心を抱いて、学びを深めました。私はこれまでさまざまな領域で活動してきましたが、その根底にはいつも、社会の中にある偏りを意識し、それを見える形にしながら、より良い方向を探っていきたいという思いがあります」
企業のダイバーシティ推進や従業員のウェルビーイング支援に貢献するために。
そうした社会の偏りに向き合うため、日本へ帰国後に株式会社Cradleを立ち上げたスプツニ子!さん。「近年は多くの日本企業がダイバーシティ推進や従業員のウェルビーイング支援に取り組むようになり、こうした企業をサポートしたいと考えたのです」と創業時の想いを振り返ります。
Cradleは、社名と同名の完全オンラインのプラットフォームサービスを提供しています。導入企業の従業員はログインすることで、さまざまなサービスを受けることができます。たとえば従業員の研修用コンテンツだけでも、男女の健康支援や、子育てや介護、ハラスメント、コンプライアンス、LGBTQ+など、多岐にわたるジャンルの動画やオンラインセミナーを視聴することができます。
ヘルスケアサポートも充実しています。全国130以上のクリニックと提携しており、従業員やその家族は不妊治療や婦人科検診、男性更年期の検査、などの医療サービスを割引価格で受けることができ、看護師にチャットで健康相談をすることも可能です。
さらにデータ分析にも力を入れており、その企業の従業員が心身の両面でどのようなことに悩んでいるのか、従業員の育児や介護の負担やハラスメントの実態など、さまざまなデータを収集していると言います。これによって、導入企業は自社の従業員の状況と他社の平均を比較することができ、改善に役立てることができます。
企業の枠組みを超えて交流ができるコミュニティを運用している点もユニークです。「各企業の人事部長やダイバーシティ室長などが一堂に集まる勉強会を年3~4回ほど実施しています。著名な先生をお呼びして、全員でD&I関連のことを学んだり、お互いの悩みを相談したりする中で、企業や立場を超えた交流が生まれています」とスプツニ子!さんは話します。
「D&Iと一言で言っても、その領域は非常に広大です。そのため、各企業のD&I推進の担当者は『何から手をつけたらいいかわからない』という状況に陥りやすく、結果として孤独を感じているケースは少なくありません。コミュニティでの出会いやマッチングを通じて、こうした孤独感も和らげていきたいですね」
Cradleは2025年現在で90社を超える企業が導入しており、その多くから非常に高い評価を得ていると言います。
働く女性の健康課題を解決する。
Cradleは創業当初、女性の健康課題に特化したサービスを展開していました。女性は生涯を通じて、月経、妊娠・出産、更年期など、さまざまな健康課題に直面します。本来であれば、こうした課題を正しく理解し、体調やライフステージに応じて適切にマネジメントすることが重要です。しかし日本では、女性の健康に必要な医療知識や治療法が、社会全体に十分浸透してきませんでした。
背景には、学校教育における学習内容の不足や、医療の意思決定に関わる層の偏りが続いてきたことなど、複合的な要因があります。こうした構造が重なり、女性の医療が社会に広がりにくい状況が長く続いてきたのです。例えば、2018年まで続いた医大での女性受験生の減点等の影響もあり、女性医師の割合もOECD諸国の中でも最低水準となっています。
こうした状況を変えるために、Cradleでは正確な情報提供と、個々のニーズに応じた治療選択を支援する仕組みづくりに取り組んできました。
なかでも強く印象に残っているのが、ある受講者から寄せられた「人生が変わりました」という感謝の言葉だと言います。
セミナー資料の一部。男女の健康課題による経済損失について触れています。
「そのときは女性の月経に関するセミナーを開催していたのですが、参加者の中に、30年以上も辛い月経痛に悩まされてきた女性がいました。セミナー後、彼女は初めて婦人科を受診し、長年抱えていた子宮筋腫が見つかりました。治療によって不調から解放されたと聞き、この経験を通じて、必要な情報を適切に届けることの重要性を改めて強く実感しました」
健康課題は性別を超えたテーマ。
女性向けにサービスを展開する中で、男性従業員が多い企業に対して男性更年期に関するセミナーを試験的に開催したところ、非常に大きな反響があったとスプツニ子!さんは教えてくれました。
「更年期症状のことは話しづらい、あるいは認めたくないと考えている男性は少なくありませんし、そもそも実態を知らないという方もたくさんいらっしゃいました。こうした状況だったにも関わらず、多くの男性が真剣にセミナーを受講してくださったことで、健康課題は性別を問わない普遍的なテーマだと強く認識することができたんです」
それ以降、女性向けという枠組みにとらわれず、すべての従業員に向けてサービスを提供できるように進化してきたと話すスプツニ子!さん。この進化は「組織変革をサポートするうえでも大きかったです」と続けます。
「女性だけが一生懸命勉強しても、会社のカルチャーや雰囲気を変えることは困難です。男性にも健康やハラスメントなどの知識を身につけてもらうことで、はじめて全員一体となって組織変革に向かって動き出すことができるんです」
まずは「仕組み」を変えることから。
「たとえば行動経済学には『ナッジ』と呼ばれる、環境デザインを通じて人の行動や態度を自然に変化させる手法があります。この考え方は、組織の変革にも役立つと考えています。たとえばCradleは定期セミナーを月2回開催していますが、多くの企業がこのセミナー情報を社内に向けて継続的に告知してくださっています。セミナー内容は発達障害やハラスメント、子どもの不登校など多岐にわたりますが、こうした情報を発信することで、セミナーに参加できない従業員の方にも『このテーマで悩んでいる人がいるんだ』『会社は課題に寄り添ってくれているんだ』という姿勢が伝わります。単発のセミナーだけで人や組織を変えることは難しいですが、継続的に情報を発信する『仕組み』を築くことで、行動や価値観の変容を後押しできると考えています」
さらに「働き方の『仕組み』をデザインすることも重要です」とスプツニ子!さんは続けます。「先ほど話したように、日本は男性の長時間労働に頼った社会構造が長く続いてきましたが、近年は共働き世帯が増えて、家事や育児の分担が当たり前になってきました。なのに『男性は長時間労働が当たり前』『家事育児は女性の主担当』など、古い価値観に基づいてつくられた『昭和の仕組み』のままでは、男性も女性も疲弊してしまいます。こうした状況を変えるために、たとえば『17時以降に会議の予定を入れない』『18時以降はメール禁止』『夜の飲み会や会食の代わりに、ランチミーティングをする』など、労働時間を制限するような『仕組み』を取り入れることができれば、企業の思想や価値観は変えていけると考えています。休暇制度の『仕組み』も、『生理休暇』と名付けていた従来の制度を『ヘルスケア休暇』と改称し、生理だけではなく更年期障害や不妊治療、男性の健康課題にも対応できるよう見直している企業もあります」

最後に、スプツニ子!さんに今後チャレンジしていきたいことを聞きました。
「Cradleの事業には手応えを感じている一方で、社会構造には依然として偏りや不均衡、そして理不尽さが数多く残っています。その根深さに心が折れそうになる瞬間もありますが、先人たちの努力によって少しずつ社会は良い方向へと変化してきました。私も子を持つ母として、未来を担う子どもたちがより生きやすい社会を築いていきたい。そのためにも、これからも決して諦めず、向き合っていきたいと考えています。今、特に興味があるのが、日本の長時間労働の是正と、従業員のウェルビーイングの向上です」
社会構造に内在する偏りや不均衡に対して、さまざまな表現や活動で向き合ってきたスプツニ子!さん。その姿勢や「仕組みを変える」というアプローチは、D&Iを推進するうえでの重要な指針になるかもしれません。