「D&Iを考える」第5話インクルーシブな教育環境づくりを通じてすべての子どもが活躍できる未来を
近年、耳にする機会が増えた「ダイバーシティ&インクルージョン(以下、D&I)」とは、異なる背景や価値観を持つ人材が互いを尊重し、それぞれの能力を最大限に発揮できる環境を整えることを指します。しかし現場では、「何から始めればよいのかわからない」「成果が測りにくい」「最終的なゴールが描けない」といった戸惑いの声も少なくありません。
「D&Iを考える」第5回目となる今回は、インクルーシブ教育の環境づくりに取り組む、横浜国立大学ダイバーシティ戦略推進本部D&I教育研究実践センター(以下、D&I教育研究実践センター)を訪れました。インクルーシブ教育とは、人間の多様性を尊重し、障がいの有無、国籍や人種、性差や経済状況の差別も関係なく、共に学び、共生社会の実現を目指そうとする教育理念のことを指します。同センターに勤めながら多様なバックグラウンドを持つ子どもたちと接してきた、芳賀さん、髙野さん、宮﨑さんの3名に話を聞きました。
芳賀 誠
髙野 賢吾
宮﨑 吉雄
誰もが活躍できる共生社会の実現に向けて。

D&I教育研究実践センターが入る横浜国立大学本部西棟
「D&I教育研究実践センターは設立以来、2つのビジョンを掲げて活動してきました。1つ目は障がいや病気の影響で本来持っている力を発揮できない子どもたちに適切な支援を実施し、社会で活躍できるようにすること。2つ目は障がいの有無に関わらず、多様な他者と協働することを歓迎できる人材を育てることです。そのために安全・安心で質の高いインクルーシブな教育環境づくりを目指しています」
D&I教育研究実践センターで講師を務める芳賀さんは、さらに「共生社会を担う次世代の人材を育てることは、少子高齢化が進む日本の未来において、就労人口の増加や多様性を歓迎できる人材の育成につながるんです」と教えてくれました。

D&I教育研究実践センターのビジョン
D&I教育研究実践センターの特徴の1つとして、車椅子を使用しているスタッフや障がいのある家族と暮らす教員など、多様な背景を持つ方たちが在籍していることが挙げられます。こうした多様性に富んだ環境だからこそ、理論だけではなく実体験に基づいた支援や研究が可能になり、より実効性の高い取り組みが実践できています。
「専門職支援員」の育成を通じて子どもをサポート。
D&I教育研究実践センターは「共生社会の実現を担う次世代育成プロジェクト」と称して、教育現場におけるさまざまな取り組みを進めています。その1つが「専門職支援員」の育成です。「現在の公立学校では『特別支援教育支援員』が教育現場に派遣され、障がいのある子どもたちをサポートしています。しかしこの方たちは十分な研修やカリキュラムを受けていない場合が多く、適切なサポートを行うことが難しいケースがありました。こうした課題を解決するため、D&I教育研究実践センターでは独自のカリキュラムを開発し、新たなキャリア人材として『専門職支援員』の育成と派遣を行う準備を進めています」と芳賀さんは言います。
この専門職支援員のことを、D&I教育研究実践センターでは「Partnership(協働)」、「Empowerment(力を引き出すこと)」、「Linkage(つなぐこと)」、「Inclusion(包摂)」、「Care(配慮)」、「Advocacy(代弁)」、「Nurturing(育成)」の頭文字をとって「PELICAN(ペリカン)」と呼んでいます。

「PELICAN」の説明資料
さらに個々のスキルや立場に合わせて、「スチューデント・サポートスタッフ」「メイン・サポートスタッフ」「チーフ・サポートスタッフ」とレベルを分類。スチューデント・サポートスタッフは特別支援教育を専攻する学生、メイン・サポートスタッフは小・中・高等学校や特別支援学校の教員免許を有する教員等、チーフ・サポートスタッフは特別支援教育等を専門とする大学教員が対象となっており、それぞれのレベルに応じた専門性を活かし、学校現場での支援に取り組んでいます。

「すでに横浜市立中学校の一般学級に専門職支援員を派遣し、障がいのある生徒のサポートが試行的に始まっています。その生徒は、脳性麻痺により首から下をうまく動かすことが難しいため、自分自身で文字を書いたり、ページをめくったりすることはできませんでした。現在は、サポートスタッフにより、ICT機器の活用により、できることを少しずつ増やしていこうとしています。また、この生徒は校外学習を目前に控えていたのですが、これまで親と離れて行動する機会がほとんどなかったため離れての行動に不安がありました。そこで、サポートスタッフと行動する機会を設け、実際にどのようなことが課題になるのかの検証も行いました」
障がいのある子どもをサポートするうえで重要なのは、支援員が常にそばにいるのではなく、適切な距離を保ちながら自立を促すことだと言います。

「支援員がいつもそばにいると、子どもたち同士の関わりが減ってしまうんです。そのため、はじめは、周囲とつなぐようなサポートも行いますが、次第に見守る場面を増やしていくようにしています。するとクラスメイトとの自然な交流が生まれ、障がいのある生徒から『一緒に写真を撮りたい』『こういうことをしてみたい』から積極的なコミュニケーションが生まれるようになりました」
教育環境の充実を図り、その効果を検証する。
専門職支援員の育成に加えて、「教育環境を充実させること」や「データを収集し効果を検証すること」も、D&I教育研究実践センターの主要な取り組みです。
「インクルーシブな教育環境をつくるために、子どもたちを対象に『みんなで過ごしやすい学校について考える』ワークショップを開催した実績があります。その中で生まれたアイデアをベースに、学校内にスロープを設置したり、車椅子の人でも通りやすいように幅広のドアに付け替えたりといった子ども参加型の施設整備を行いました。そのほかにも、大学のオープンキャンパス開催時に車椅子利用者を対象とした大学の講義体験や、横浜市の教育委員会と共催でプールやポッチャ※の体験会の実施、インクルーシブ教育に関するシンポジウムの開催や書籍の監修にも取り組んできました」
※ポッチャ:ヨーロッパ発祥の障がい者のために考案されたスポーツで、パラリンピックの正式種目

横浜市教育委員会と共催したインクルーシブ教育に関する公開シンポジウムの様子

D&I教育研究実践センターが監修した書籍「絵でみる!はじめてのインクルーシブ教育 みんなちがって みんな友だち(全4巻)」
これらの教育実践を通じて得られた量的・質的データを検証することが、さらなるインクルーシブな教育環境づくりに役立っていきます。
父親たちの声が生んだ「オヤジーズ」プロジェクト。
今回取材に協力いただいた芳賀さん、髙野さん、宮﨑さんの3名にとって、1つの転機となったプロジェクトがあります。それが「オヤジーズ」です。これはセンター長である泉真由子教授の何気ない提案から始まったもので、障がいのある子どもを持つ父親の視点から、障がい児教育や家族支援について語り合う活動です。

公開シンポジウムのオープニングで上映されたオヤジーズの動画
3名ともに障がいのある子供を育てる父親として、子どもと向き合い育ててきた共通点があります。そこで最初の活動として、それぞれの家庭の背景や父親としての考えについてオープンに話すことになったと言います。
「たとえば私の場合、高校生になる双子の息子がいるのですが、二人とも障がいがあり、将来就労できるかどうかが不安だという話をしました」
芳賀さんの言葉に、髙野さんと宮﨑さんが深く頷きます。そして髙野さんが「息子の陽介は現在D&I教育研究実践センターで講師を務めていますが、中学生のときの事故で車椅子生活を余儀なくされたときは、将来のことを考える余裕すらありませんでした。だからこそ、今こうして活躍できていることが夢のようなんです」と言葉を紡ぎます。
本音で語り合う中で「父親同士で子どもの障がいについて話す機会がなかった」という発見があったと宮﨑さんは言います。
「先日、学校の先生方の前で話をする機会をいただいたのですが、ある先生から『生徒の母親から話を聞く機会はありますが、父親の視点から話を聞く機会が少なくて新鮮でした』という感想をいただきました。その要因は、父親同士は横のつながりが少なく、抱えてきた想いや経験を職場や家庭で伝える機会がなかったことにあると感じました。話せないからこそ父親たちは孤独感を深めていたのではと思ったんです。ですが私たちの活動を通じて父親同士で会話がしやすい空気が生まれたら、こうした状況に一石を投じることになるのではないかという期待があります」

こうして話し合った内容は動画として収録・編集され、先のシンポジウムのオープニングとエンディングで上映され、大きな反響を呼びました。
真の多様性社会の実現に向けて。
「インクルーシブな教育環境が当たり前になり、子どもたちが社会で活躍できる力を身につけられたとしても、進路選択肢の少なさ、就労支援の不十分さ、そして社会の受け入れ体制の未整備など、社会の構造的な問題が山積しています。だからこそ、私たちの理念や活動を社会に向けても発信していくことが必要だと感じています」
最後に、社会全体でインクルーシブな環境をつくるために、私たち一人ひとりにできることはないか尋ねてみました。すると芳賀さんは自身の実体験をもとに「先入観を持たずにコミュニケーションすることが大切ではないでしょうか」と教えてくれました。
「以前、車椅子利用者と飲み会を開こうという話で盛り上がったとき、私は真っ先にバリアフリーのお店を探そうとしたんです。ですがその方は『バリアフリーはどうでもよくて、美味しいお酒が置いてあるかが重要だ』とおっしゃいました。そのときに、勝手な先入観を持って接することは相手を深く知ることの妨げになるのだと気づかされたんです。もちろん相手の立場に配慮することは大切なのですが、先入観にとらわれずに話をしてみることがインクルーシブな社会を実現するために必要なことだと思います」

真の多様性社会の実現には、教育環境や社会の制度を整備するだけではなく、一人ひとりの心の変化も不可欠です。D&I教育研究実践センターの多様な取り組みに触れる中で、誰もが自分らしく活躍できる社会や日常をつくるために大切なことを学びとることができました。
取材協力:横浜国立大学D&I教育実習センター